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※強調で下線がある部分は詳細資料にリンクしています。
※大正以降は現在、資料編集中です。
| 西暦 |
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| 縄文時代 | 海水で味を加減することを覚える。あるいは岩礁 (岩塩等も)や海藻などに残る僅かな結晶を探し求めていたでしょう。 | 中国の古代第三王朝周代の古文書に「八珍の美醤百二十甕を用いる」とある。 甕とは種類の意味。この頃の醤は獣肉・魚肉をたたいて、あるいはその血液に塩と美酒を加え、百日ぐらいで用いたらしく、汁気の無いのが高級品で、今日のような液状のものではなかったらしい。 |
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| 弥生時代 | 造塩始まる。稲作始まる。魚醤・肉醤(ししひしお又はしおから)らしいものがあったと思われる。 | 香辛料を使用していた。米・麦・粟・黍等を原料にして酒を造っていた。 | ||||
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512年
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古墳文化 (大和朝廷時代) |
応神天皇の御代百済の博士王仁(わにきし)が献上した論語十巻の中に「醤」という文字が合った。 酢が造られていた。大豆の伝来とともに大豆の醤を造る技術も得る。 |
朝夕二食の習慣があった。 仏教伝来とともに飲食の記事が多く伝わる。 牛酪の渡来。(今日のバター) |
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593年 645年 |
飛鳥時代 (大和王朝時代) |
米を甑(こしき)で蒸して食べ始める。甑が現れないと、中国古代の肉醤は造れるが、今日のような味噌を作ることは出来なかったでしょう。 牛乳や乳製品の製法伝来。朝鮮から「高麗醤」、シナから「唐醤」が伝来。 |
聖徳太子が国号を「日本」と定め、帝の称号に「天皇」の文字を選定した。文字を知って、日本人が使用するに至るまで千年はかかったらしい。 | |||
| 白凰文化 (大和王朝時代) |
大宝令が制定。 肉醤(肉の塩漬けのようなもの) _(大豆と海藻を煮て干したもの) 未醤(日本の新調味料) 醤、以上の四種類の醤が登場。 万葉集に醤の歌が現れる。乞食人の歌は賎民の間に醤が普及していたのを示している。 |
宮内省大膳職の任官がありその下に醤院が置かれ主醤の制があった。今日ほど味が美味しくなく異臭をつく個性の強い特異な風味であったものらしく、このような異色の強い味覚を嗜好に移す迄には相当な年月が経っているものと考えられる。中国から伝来した醤と_は日本にあった何かしらの醗酵食品と後に融合したものと思われる。この頃の食物主食・・・玄米、粟、稗、麦豆の雑穀類 副食・・・菘菜、水葱、芹、塩、酢、甘柿、飴、蜂蜜、酒、胡麻油、わさび | ||||
| 奈良時代 | 大東寺古文書に尾張・陰伎・長門・豊後・丹波・駿河・伊豆・の租税に醤と未醤が稲の何把に該当するという徴租の価格が示されている。 奈良の市場では未醤四升が廿文で販売されていた。 大東寺大仏殿竣工のころ、_と未醤には上中下の等級と共に、交易価格が貨幣価値で記録されている。 |
この頃の僧侶一人当り一日分の常食量
。 醤・・・一合五勺 滓醤・・・一合 滓醤・・・一合 殆ど味噌ばかり食べていた事になる。 豆腐の伝来。 土木工事には味噌が縁の下の力持ちを演じ、蛋白質の補給に大きな貢献をした事は確かである。 |
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| 平安時代 | 日本三大実録に「味噌」の字現る。 味噌醸造・販売の開始 宇津保物語に「ミソ」の仮名文字現る。 和泉式部作にみそつゆの歌がある。 |
味噌という和製の漢字を頂戴して、日本に独立した固有の伝統を新たに発足した。奈良時代までの醤、未醤、垂汁は大陸からの伝来とともに見られるし、確固たる史実の根拠を持たないがこれからは確かに日本に独立し独自の伝統を積み重ねていくわけである。 梅干の始まり。 醤店、未醤店が京都の西市に起こる。 |
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| 鎌倉時代 | 禅僧覚心が宋に渡り尺八と金山寺鹹_の造り方を修得し、紀州湯浅で金山寺未醤の製法を伝えた。 大豆の間作始まる。 最明寺入道時頼が酒の肴に味噌を用いた。この頃の味噌は台所の常備の食物であったらしい。 武家庶民の間に汁かけ飯の味噌汁が流行した。 溜(たまり)の利用始まる。 (たれ味噌、うすたれなどの調味料に) |
禅僧を始め鎌倉時代、新興宗派の僧侶たちが日本料理を新発明したわけでなく、古来の料理を踏襲したものに違いないが僧侶の料理が仏事供養の際に、民間庶民の修得するところになり、やがて民間の日常の食膳、民間の社交の宴席に食物料理の諸法を流行するに至ったので、日本人庶民の間に食生活向上の新時代が始まった。 食事を三度とるもの現る。山法師は朝昼晩三度食事をとった。これまでは朝夕二度が普通 であった。 入元僧が納豆伝来。 おやつの習慣が始まる |
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| 室町時代 | 高麗の味噌が渡来。 造り方も味も日本の農家で造ったものより秀れていたであろう。味噌玉
にして炉上や軒下に吊り下げる方法が普及したものと考えられる。 道徳味噌、 味噌などが売られていた。 味噌水(雑炊のようなもの)が普及する。 味噌は垂味噌、揩味噌、醤煎、芥子味噌、蟹味噌として使われた。 易林本節用集に「醤油」の名現る。 陣中食糧として米・塩と共に味噌は重要なものだった。 |
節分の日に、鬼は外福は内を唱えて、炒り豆をまく行事が広く庶民の間に流行しだす。(大豆が広く普及した事を示す) 食事 飯・・・食膳の補助的地位(飯は茶に属したもの) 菜・・・食膳構成の中心的地位 。 菜とは菜の葉、野菜ばかりではなく魚介類、鳥獣類も菜といったようである。 食事は普通朝夕二度でこの頃には飯は主食となっていた。 納豆、豆腐が流行してきた。 京都の精進料理が普及した。 汁物の調味料には主として味噌が用いられ、醤油は僅かであった。垂味噌、薄垂、煉味噌の類から醤油の発明となったものらしい。 垂味噌 味噌一升に水三升五合を加え煎じて三升にし袋に入れ、それを締めて垂らしたもの。 田楽がこの頃から始まる。 五山僧徒の間に発達した割烹調理の技術は奥秘として四条・大草の両家がこれを世に伝えるようになったが、醤油はその中でも調味の秘伝口授となって永く世に出なかった。 砂糖が一般庶民に知られた。 |
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| 桃山時代 | 茶道懐石料理の味噌汁、味噌料理となって桧舞台の立役者を演じ、その味は一段の飛躍を遂げた。 醤油廻送船の始まり。 仙台みその始まり。 |
古来の朝夕二食を原則としていた日本人の食習慣が変化して朝昼晩の三食習慣が固まった。 たばこ、カステラ、かるめん、パン、金平糖、ひすかうと、ぶどう酒の伝来。 伊達政案が兵糧と凶作の備蓄用として醸造する。 |
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| 江戸時代 | 湯漬けに焼味噌という武士の粗食が励行された。 刺身料理に酢味噌が添えられた。 将軍家御台所で三食とも味噌汁が付けられた。 鹿、狸、兎、川瀬、熊、犬などの肉を串に貫いて味噌をつけて田楽にして食べた。 浅草に初めて料理茶屋が出来る。(料理屋の草分け) 茶飯に豆腐、煮豆など奈良茶と名づけて売り出した。 播州竜野にて淡口醤油できる。 周防柳井で甘露醤油造る。 味噌屋が専業としてでなく酒屋に兼業されていた。 熊本で初めて玉城商店が醤油醸造・販売を行う。 |
味噌は最低の食生活に不可欠のものとなっている。 江州彦根の井伊家で牛肉の味噌漬が行われた。 汁講というのが下層の武士の間で盛んに行われた。(鍋に持ち寄った魚野菜などを一様に入れてお椀に意外な珍品が入るのを興味としたらしい。) 砂糖菓子の普及 雑水と粥の区別がされるようになった。雑水・・・味噌で味をつけたもの 粥・・・塩で味をつけたもの トコロテンの商品化 料理屋 六十軒・茶漬屋 二十軒 蒲焼屋 二十軒・酒屋 四十軒 醤油屋 七十軒・そば屋 二十軒 味噌屋 十軒 以上江戸内 |
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| 明治時代 | 明治二年二月十一日、初代山内卯七郎が熊本市新町一丁目に「梅屋」の屋号で味噌・醤油醸造並びに米の販売を始める。 自家製では味噌も醤油も同一仕込みで味噌桶にザルを入れて、いわゆる味噌タマリを採って醤油の代用にする習慣があった。 明治二十四年初代茂木啓三郎の後援で山崎式原動圧搾機が完成し、醸造機械化の端緒が聞かれるなどで、醤がようやく手工業から脱皮して近代産業として世評にのぼるようになった。 明治三十二年四月八日梅屋は全国品評会醤油一等を受く。 明治三十四年梅屋は火災に遭遇したが、復旧再建。 グルタミン酸の工業化(鈴木三郎助により) |
ソースの製造始める バーの始まり カフェーの始まり 学校給食の始まり コーヒー店の始まり 地域的な小企業者もこの時期に急速に増加している。 |
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| 大正時代 | 朝鮮仁川の日本醤油Mで特許茂木式味噌擂砕機の設備による「ほまれ味噌」を売り出す。擂り潰して仕込むので栄養価が高いと評判だった。 大正二年(二代目)伊三郎の長女イシの婿養子として熊本市唐人町の履物問屋だった井上家の忠次郎が迎えられた。 |
日本式洋食が広まり日本人の食生活をより豊にした。 醤油専業者の生産工場が次第に近代的な施設を行い量産化が顕著になった(全国九千件、みそ五千件以上) 忠次郎は立ち遅れている味噌醤油醸造法の封建的家業から近代的企業形態に脱皮せんと深く決意し、先進地である千葉県のキッコーマン醤油Mや大蔵省醸造試験所及びヤマサ醤油Mに研究に出向き約五年間に渡り醸造技術を学び帰熊。 |
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